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山形市双葉地区案内図

出典:西山形振興会 『西山形の散歩道』








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● 富 神 山 (とかみやま)

東北の山は神々の山である。其の昔、とかみの山は神として国の律書にその名を連ねた。
「出羽の国の利神に従五位下を授く(三代実録)」

西山形のシンボル
 標高402メートルと特に高い山ではないが、平野部に突き出た美しい三角錐の山容と、山頂の眺望の見事さで、多くの名山ガイドブックに出ている「おらだ自慢」のお山だ。
 今から1500万年ほど昔、白鷹山火山系の噴出したマグマが固まった安山岩の山で、長い間風雪に浸食されて今の形になったという。

出羽合戦の舞台
 富神山が歴史上有名になったのは、慶長5年(1600)9月、豊臣・徳川天下分け目の関ケ原合戦の余波戦、豊臣方上杉軍直江兼続と徳川方山形城主最上義光との合戦の場となったことである。
 関ケ原合戦で豊臣方の敗戦を知った上杉軍は撤退、それを最上軍が追撃し、そのもっとも激戦となったのが富神山山麓であった。陣頭指揮した最上義光の兜に米沢銃の弾が当たり、筋金が損傷したほどに激しい戦いであった。その兜が「最上義光歴史館」に陳列してある。
 そして今、山形城跡にある馬上の最上義光銅像の鉄杖は富神山を指しているという。

トカミヤマという呼び名のいわれ
1.十日見山
 慶長5年9月13日、畑谷城を陥(おと)した上杉軍の大将直江兼続は富神山に登り、遥かに山形城を望見したが、霞(かすみ)がかかって見えない。…十日間も見たので「とうかみ山」と言うんだど、だから山形城を「霞(かすみ)ケ城」と言うんだど、という話がある。
 こういう話は、源義家の「矢ぼろき山伝説」と共に、いわゆる民話であって、似たような話はたくさんあるかも知れない。
2.戸上山
 前述、慶長の合戦を記した「関ケ原戦記」「上杉家記」等には大体「戸上山」とある。
3.戸神山
 宝暦10年(1760)、村木沢村名主渡邊綱言の書いた「御巡見様御下り御案内記」(研究資料第一号所載)には戸神山とある。
4.富神山
 現在の正式名称。明治5年(1872)の大字柏倉文書絵図には「富神山」とある。
 明治3年、新政府は土地・人民の詳細調査書の提出を求めており、明治5年、壬申(じんしん)戸籍、地券発行等により「富神山」と固定したと考えられられる。
 つまり、古来この山は「トカミヤマ」と呼ばれ、後に漢字を当てたから表記が一定せず、それだけ古くから特別視された山名なのである。麓の大之越古墳や八幡様の森から出土した旧石器がその古さを証明するだろう。

神体山「トカミヤマ」
「トカミヤマ」と称する山は、近くは千歳山の南の戸神山がある。県外では宮城県仙台市秋保に戸神山があり、さらに日本全国を探せば、安来節に唄われる島根の十神山、柏倉の地名を持つ群馬の戸神山、壱岐神道の角上山、三河富士と呼ばれる愛知三谷町の砥神山、また、山という名称ではないが、大分・津江三山の一つ渡神岳などが知られる。
 これら凡ての「とかみやま」に共通するのは富士山のようにピラミッド型の山容を持ち、たいてい「神様の坐す聖なる山」で、山頂や麓に神社などが存在することである。
 特に、愛知県三谷町の砥神山は、通称「三河富士」と言われ、砥神神社の奥宮だが、インターネットの写真で見る限り三角山だけれど、わが富神山ほど端麗ではない。砥神山を紹介するホームページでは、山の幸が豊富だから「富神山」と呼びたい、とある。
 富神山は太古以来、山そのものが神。従って、今山頂に秋葉様の石祠等があるが、それは近頃の事で、古来の姿を今に伝えているのは東南麓の柏倉上丁に祀られる「富神明神社」である。(結城 敏雄)

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● 狐 越 街 道 

 狐越新道開通まで
 今から120余年前の明治20年10月30日、門伝で「狐越新道落成式」が盛大に行われた。
 この事業は、県都山形一円と置賜地域とを結ぶ大動脈が必要と、南村山、西村山、西置賜3郡268町村連合会で狐越新道が最適と決定、明治19年10月着工。新道といっても旧道の改修部分もあるが、山形上町から沼木・門伝・山王・荻ノ窪・礫石・大平・嶽原から狐越峠(標高705メートル)を越えて荒砥まで約8里、その内約5里は山道、それをすべて荷車が通れる道に、わずか1年間で完成したのだから驚嘆に値する。それ以前の山道は荷物を背にした牛馬が通れる程度だった。
 この大事業をまとめたのは、当地区の県会議員斎藤理右衛門(今の斎藤医院)で、この3郡連合会議員総代として落成式に述べた祝辞全文が、当時の新聞に出ており、その偉業の一端をうかがうことができる。
 狐越街道で歴史に有名なのは、慶長5(1600)年、上杉軍と最上軍との攻防戦であろう。
 江戸中期以降、白鷹山嶺を越える道筋に、この狐越峠を越す「狐越道」とは別に、七ッ松から上平を経て大沼・畑谷・荒砥へ通ずる道筋があり、これを「中越道」といって幕末の公道であった。
「公道」とは、口留番所(荷改め、荷口銭が徴集される)がある道で、畑谷にこの番所があったから、中越通が公道で他の狐越は「藪道(やぶみち)」とされ通行を禁じられた。だが、狐越道が利便良かったのでひそかに通行され、時に抜荷問題を起こすこともあったことが古記録にある。
 それが、明治20年の新道開通(翌21年県道となる)で「狐越街道」の名は白鷹越えを総称する街道名となって今日に至っている。

 街道のにぎわい
 狐越新道という近代的大街道の開通は、昔からの上山から山辺への南北道と十字に交叉することになった「門伝四辻周辺」は飛躍的に発展した。旅館3軒、料亭4軒、魚屋・菓子屋・呉服・荒物・鍛治屋などそれぞれ2軒以上、医院、薬屋に種々の職人も集い、銭湯や芝居小屋の「富神座」まであって西部一の商業地域として今日に至っている。今で言えば、高速道路のインターチェンジができたようなものだろうか。
 この街道で特筆すべきは、大量の「桑」が置賜地域に運ばれたことである。
 特に明治初年、下柏倉名主であった「伊藤五郎治」が選種した「五郎治早生」は抜群に速い開葉で、春蚕初齢から三眠まで絶対の優位を示したから、この新道開通で一段と盛んになり、荒砥桑問屋から荷車を引いて嶽原で待っている「三平」(桑問屋の手先で仲買人)に日に何度も往復したり、三平になっていい思いをしたと語る方が当地区にも何人かおられた。
 だが、大正12年、荒砥まで鉄道が来ると次第に通行が減少し、昭和9、10年に山王・荻の窪間が改修(富神山迂回路)されるが、昭和25年、畑谷廻りの荒砥行きのバス道路が開通するに及び、嶽原までは修理されたがその先の狐越峠は道形はあるものの通る人ははとんど無くなったようである。
 なお、司馬遼太郎は街道シリーズで狐越街道をこのように書いている。
「狐越の山河は、予想したとおり、東北の自然がもつ独特のしじまをいまなお秘(ひそ)かに保(も)ち残しているようで、途中飽くことがなかった。
 山が果てるころ、急に眼下に山形盆地を見下ろすことになる。野広く、その野の涯(はて)には蔵王の連山がそびえている。野の一部に白い建物が密集して山形市の市街地がひろがっており、自然と都市との調和が、日本でもめずらしいほどの美しさで展開されている。」(『街道を行く』十羽州街道・佐渡のみち 朝日文庫1983年)(結城 敏雄)

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● 七松山 地福寺 −山岳宗教の聖地として隆盛を極めた

 天平5年(733)行基菩薩が奥羽地方巡錫のおり、この山を開き十一面観世音像を刻み地福寺境内に安置し、山号を「七松山」と称しこの一帯を七ッ松と名付けられたと伝えられております。
 その昔、この一帯は白鷹山を中心とした真言宗の山岳信仰の聖地として隆盛をきわめ、地福寺の祖先は白鷹虚空蔵山と荒沼大明神の別当職として畑谷に住し、その後七ッ松に移住したものと思われます。  当時地福寺は門伝一帯を支配する権力を有し、四ケ寺の末寺を支配していたと言われております。その後山形城主最上家代々の手厚い保護を受け、武運長久、国家安穏の祈願所として、また最上家の守護寺として栄えました。
 慶長5年(1600)上杉勢が最上出羽守義光公に押し寄せ、長谷堂城に進軍のおり、関ケ原合戦で豊臣軍の敗戦を知り米沢に引き上げるとき、七ッ松一帯が兵火にかかり、殿堂は勿論、貴重な宝物や歴史を裏付ける貴重な資料が焼失し、幸い本尊だけは焼失をまぬがれ変わらぬお姿で私達をお守り戴いております。  明治の初期は七ッ松、荻の窪、礫石の信者で観音講を組織し、お互いに助け合う無尽講としても地区の相互扶助に一役を果たしておりましたが、今は七ッ松だけで観音講を続けてなごりを止どめております。
 また、明治の中頃より寺小屋として地区民の教育にも取り組み、地区振興に努めました。昭和初期よりその中頃まで裁縫(針子)の指導を行い、双葉地区全体の女子の教育の場としても活動しておりました。
 本堂の境内及び観音堂の境内の周辺は今も巨木がうっそうと繁り、長い歴史を物語っているように思います。(佐藤恒雄)

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● おかぐら山の館城 

 七ッ松の集落は古刹地福寺の起源等を考えますと大変古い集落かと思われます。畑谷、置賜盆地に行く道路で、いろいろな道が交差するところでありました。白鷹山地の管理業務や大沼、荒沼から流れる用水路の管理なども行い、政治経済の重要な位置にあったことは種々の文献から推察されます。
 その七ッ松の北側にあるオカグラ山は票高366メートルで、七ッ松集落を一望にすることが出来、村木沢そして山形の北部を見渡せる眺めのよい山です。
 山頂は二段になっておりまして、南東側に平地が5段ほど有り、西の急斜面に空掘がはっきりと確認でき、南側は断崖絶壁で奇岩がたくさん有り、オカグラに似た岩があることからその名がついたと思われます。キツネやタヌキの住み着いた洞穴などもあり、調べれば調べる程自然条件の整った理想的な館城であったと思われます。
 それでは、この舘城はどのような役割をもったものか推測してみますと、一つは近くで戦いが始まると集落の人々をこの中に入れて人々を守ったものと思われます。また最上と置賜の最前線の要塞である畑谷城との連絡場所で、畑谷城から東黒森山〜高清水山〜オカグラ山〜曲森山〜長岡山そして門伝館へと、通信方法は計り知る事は出来ませんがそんなルートではないかと推測され、重要な見張り所であったことはまちがいないと思われます。(佐藤恒雄)

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● 女子林古戦場 

 慶長5年(1600)9月13日、2万の大軍で畑谷城を落とした上杉軍は、双葉地区を焼き尽くし長谷堂城を攻めましたが、15日にわたる攻撃にもかかわらず長谷堂城は上杉軍の猛攻を撥ね返し、上杉軍が攻めあぐねている時に、関が原で豊臣軍の敗戦の報を受けた直江兼続は2万の大軍をいかにスムーズに引き上げさせるか用意周到な打ち合わせを行い、10月1日朝もやの中をひそかに撤退を開始しました。富神山の南側と山王より南沢そして早坂林道方面と13隊に分かれて退却。それを察知した最上義光は針生熊蔵、月岡八右衝門等に600の兵を付けて追い打ちを命した、一隊は早坂林道に先回りをし、一隊は山王で追いつき激しい攻防戦が繰り広げられました。徳川軍の勝利に勢いづいた最上勢の攻撃はすさまじく、双方多数の犠牲者を出しました。
 一方、早坂林道を先回りした一隊はオカグラ山の麓南沢を退却する上杉軍を眼下にとらえました。南側はなだらかな斜面で北側は急な斜面ちょうど摺鉢状のところが女子林(面子林とも言われていた)でした。ここぞとばかりに攻撃を仕掛けた最上勢は上杉勢の激しい攻防に会い、銃撃戦を交え、敵味方入り乱れての激しい戦いが繰り広げられたと言われております。
 最上側の伝える所によれば、この合戦に味方の兵600余人を失い、上杉勢の首1580余りを獲ったと言われております。
 私達が住んでいるこの土地で、かつては人の殺し合いの大戦争があったとは今は想像もすることがでさませんが、歴史の織り成すさまざまな姿を思い浮かべてみるのも先人の供養ではないかと思っております。
 西山形郷土史研究会で、出羽合戦400年の節目にあたり、上杉勢、最上勢そして数多くの地元の犠牲者のご冥福を祈り、平成13年10月7日、鎮魂の供養祭が七ッ松の地福寺を会場にして執り行われました。西山形郷土史研究会員と地区の有志がたくさん参加して厳かに行われました。(佐藤恒雄)


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● 荻の窪地蔵堂  

 荻の窪集会場の西側に小森の中央に地蔵さまがあります。
 地蔵堂は安政2年(1856)遷座と記録されており、幕末のものでとても立派な地蔵堂で、当時の生活様子が伺われます。茅茸屋根からトタン屋根に昭和33年12月に完成し現在に至っており、昇り旗は文久4年(1864)と記録されております。当初地蔵さまは集会場の東側にあり地蔵供養石には嘉永5年(1852)と記録されており現在の所へ移動しております。
 地蔵さまは子ども達にとって親しい仏さまです。村の外れのお地蔵さんはいつもにこにこ見てござると童謡にもあるように、村の外れに建ち無心に遊ぶ子供たちを見守ってくださるお地蔵さまであり、子育て地蔵、家内安全として村の鎮守さまとして信仰も厚く、誰一人怪我もなく子供たちの遊び場の中心になっております。お祭りは4月24日から祭日の4月29日に行われるようになり、集落全員参加をし双葉大黒舞が披露され子供たちによります樽神輿(たるみこし)をかつぎ集落全戸に家内安全身体堅固のお守りを配っております。(黒沼 正良)

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● ごろびつ岩 

 ごろびつまんげん、あしぇまんげん
 富神山のふもとを南に回って柏倉と七つ松を結ぶ道があります。山形と白鷹を結ぶ狐越街道は富神山北側の山上を通るのですが、この南回りの山道はもう一つの狐越街道でした。
 ここにごろぴつ岩があります。富神川(とかざ)の中にでんと陣取った大きな岩です。いつの頃からそう呼ばれたのかわかりません。今の子供たちは「ごろぴつ」の意味もわからないでしょう。
「ごろびつ」は弁当箱のこと。それも秋田の「曲げわっば」の形をした昔の弁当箱を言います。富神川の中の大岩はずんぐりとしていて弁当箱の「ごろぴつ」にそっくりなのです。
「ごろぴつ」は「まんげん」とも「あしぇ」とも言います。ここからごろびつまんげん、あしぇまんげん、という呪文のような言葉が生まれました。
 山仕事や畑仕事に行く時「まんげん」に御飯をぎっしりと詰めて蓋を合わせる。それを「あしぇまんげん」、合わせ弁当箱と言って、蓋は山のように盛り上がっている。その姿と富神川の大岩は瓜二つだったのです。
 まだ軽トラックが普及していなかった頃、山仕事へは歩いて出かけました。朝にごろびつまんげんを抱えて山に出かける。帰ってくるのは夕暮れ時。父親の帰りを見計らって子供たちはごろびつ岩の辺りまで出かけた。山道の先を見つめていると空になった「まんげん」をぶら下げて父親の姿が現れる。貧しかったかもしれないが、長閑な風景がありました。
 ごろぴつ岩の上には湯殿山の碑があります。東北の山々には神々が住み、多くが信仰の対象として祀られています。この辺りでも山への信仰は厚く、山の神、古峯神社、馬頭観音の碑が建てられています。
 ごろびつ岩を登ると壁粕というやや開けた場所があります。ここからは縄文土器が発見されてもいます。西山形は東西に長く広がる地域ですが、東の田圃から西の山々にいたるまで長い歴史と豊かな人々の文化が記憶されています。壊さずに守りたいのですが、山は荒れています。何年か前、小さな山の神の碑が富神川脇に転がっているのを見ました。その山の神はいつの間にか残土に埋まり、今は見ることができません。(散歩道事務局)
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● 藤九郎盛長伝説 寺山の由来 

 寺山の自然は今も平安時代の風景を残している。ここに藤九郎盛長の伝説がある。 藤九郎盛長は、源平が覇権を競った混沌の時代に、源頼朝を生涯にわたって支えた第一の側近であった。千年の昔、藤九郎盛長はここ寺山に真妙寺を建立し、毘沙門をまつり、源氏再興を祈願したのである。
1.藤九郎と毘沙門天のお告げ
 寺山を語る時、鎌倉前期の武将・源頼朝の重臣、安達藤九郎盛長(保延元年〜正治2年4月26日、1135〜1200)や明源寺(柏倉1060番地)又は西養寺(長谷堂88番地)を除いては成り立たない。
 安達藤九郎盛長は源頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の娘を妻とした関係で源頼朝と接近、頼朝挙兵時には在地武士の招致に活躍して頼朝の信任を得た。元歴元年(1184)頃より上野(こうづけ−現在の群馬県)の奉行人として国内公領の収税を管轄した。文治5年(1189)、奥州合戦に従い、また、頼朝二度の上洛にも随行し、正治元年(1199)、頼朝の死により出家して法名は蓮西(れんさい)と称した。頼家(頼朝の子)が将軍となり、親裁停止で13人の重臣による合議制ができた際、その一人となる。また、この頃、三河(現在の愛知県)守護であった梶原景時失脚事件では弾劾派の一人でもあった。
2.源氏再興を祈る
 言い伝えによれば、治承2年(1178)、安達藤九郎盛長が山寺立石寺で源氏再興を昆沙門天に祈ったところ、「この地を去ること西南方に老杉の茂生する山がある。この山に一宇の坊舎を建立し、祈願すれば願いはきっと叶えられるであろう」との毘沙門天の夢想のお告げがあった。盛長はこれに従って、西南方の山を目指して、到達した場所が現在の寺山であった。
 その寺山に毘沙門堂と守護寺・柏蔵院を建立し「毘沙門山真妙寺」と称した。現在の明源寺(住職・柏倉玄神氏第16世)の前身は柏蔵院であり、現在の西養寺(住職・安達兼雄氏第28世)の前身は真妙寺と言われている。
 寺山には今でも、切っても切っても生えてくる蘖(ひこばえ)杉(時代杉とも言われる)が自生しており、一帯には茶畑(茶を栽培していたところ)、水クバ(水を汲むところ)、アクダン寺、シンジョウ寺(共に寺のあったところ)などが当時を忍ばせる地名として語り継がれている。また、毎年、4月29日を寺山に安達藤九郎盛長が建立したとされる毘沙門堂(現在、明源寺本堂前に移転されている)の祭事の日とされ、明源寺住職が司って現在も営まれている。さらに、5月13日は寺山に於いて安達藤九如盛長を祭って記念碑を建立し寺山祭りとして西養寺住職が司って現在も祭事が営まれている。
(資料)日本人名辞典、山形のお寺さん第1集(山形テレビ) 協力/柏倉玄神住職   (安達義雄)

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● 新田の首なし地蔵  

 地蔵様は子供と遊ぶのが大好き
 新田の六地蔵にはこんないわれが残されています。
 昔、新田の村に重いはやり病が出て困ったそうです。村人達は神仏に祈願して病気を治そうと上手な算置(さんおき−占い師)のところに相談に行きました。
 算置が占うと「私だけではとても多くの人のはやり病を治す事は出来ない。六体にふやしてくれ」という地蔵の言葉が聞こえました。早速、地蔵堂のお地蔵様を六体にしてまつると、たちまち、はやり病が治りました。
 さて、地蔵様の周りは子守ばあさんや子供たちの遊び場でした。秋になると南瓜(かぼちゃ)に穴を開けて縄を通して引っ張ったり、転がしたりして遊びました。
 これがいつの頃からか地蔵様の頭に縄を付けて遊ぶようになり、それを見た大人が大変驚いて子供たちを大きな声で怒鳴り、叱ったそうです。ところが、その叱った人が夜に床に就くと地蔵様が現れ、うなされて眠れず、熱を出して寝込んでしまいました。これを知った村の長老は「地蔵様は子供と遊ぶのが大好きなんだ。叱った者が悪い。お詣りして地蔵様に謝りなさい」と言いました。
 村の皆で地蔵様にお詣りして謝ると、翌日には叱った人の熟も下がり元気になりました。子供たちはそれから毎日のように地蔵様の頭を縄でまいて引っ張たりして遊びました。そうして遊んでいるうちに頭が一つなくなり二つなくなりして、そのうち、だれ言うともなく新田の地蔵様は「首無し地蔵様」と呼ばれるようになりました。
(新田の六地蔵・祭日)7月24日に最も近い日曜日。無病息災・家内安全を願って多くの人が訪れます。(土屋 馨)

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● 新田の土屋家と観音様 

義家の守護仏観音様を守り続ける
  源義家が奥羽征伐のとき、奈良の都の長谷寺に戦勝を祈願し1寸8分の観音様を守護仏としていただき兜の中に納めて来ました。無事に征伐を終えた義家は戦の供養にと戦場となった村にお堂をたて、兜に納めていた観音様を安置し世の中の平和を願い都に帰りました。
 ところが、後の慶長5年9月、豊臣・徳川の争いが起こり、豊臣側についた上杉軍が徳川側の最上氏の領地に攻撃を仕掛けました。これが出羽合戦の始まりですが、この戦で9月15日に柏倉八幡宮が炎上しました。上杉軍の焼き討ちを逃れるため、同月、土屋家の先祖・土屋藤内が一族と共に観音様を剣ゲ峰(今の古屋敷)に疎開させました。
 その後、四、五代に亘り100有余年のあいだ土屋家は剣ゲ峰に居住しましたが、家族も年毎に多くなり、水と耕地のある土地を求めて今の葛倉山に移転し、数町歩の田畑を開墾し生活するようになりました。この地が古屋敷、地蔵堂、新田という地名をいただくようになったのはこうした歴史を持っているからなのです。
 ここには今なお、樹齢数百年を数える翌檜(アスナロ)の巨木があります。
 歴史を見つめてきた大樹と新田の観音様。これらを鎮守の神として信仰する多くの人々が春、夏、秋の祭りの日々に新田を訪れます。
*祭日 春祭り/4月29日 夏祭り/8月10日 秋祭り/11月17日 (土屋 馨)

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● 礫石の弁天様 −地区の守護神  

  県道・長井白鷹線を三軒屋からつづら折りに登ると、県道の西側にこんもりとした杉林が見えてくる。その林の中央に台座石の巨石が二つ並んで、その一つに万年堂が鎮座している。これが弁才天を祀った弁天様です。七福神の一人弁才天は音楽、弁才、財福などを司る女神で福徳賦与の神として、地区の鎮守様として信仰を厚くしています。
 お祭りは「つちのとのみ」とされ3か月に一回、正月15日は「おさいど」が行われてきました。弁才天は高野勇吉氏の先祖、運吉氏(屋号にもなっています)が300年以前より祀ったもので、代々勇吉氏が別当職として継承し守り続けております。以前は、お祭りには赤飯を炊いて配り、地区内の中心にあって子ども達の遊び場となり、砂場や鉄棒などの遊具もありましたが、現在は少し離れたコミュニティ広場に移動されました。弁天さまは女紳のため優しくこの遊び場で子ども達の怪我もなかったといわれています。
 万年堂の建立されている巨石の台座は二つに分かれているが、切り口を見ると元は一個の巨石だったようです。万年堂の前のくぼみの水は100日間の照り続きにも干し上ることがないといわれています。
 門伝,皆龍寺の住職・榊法信和尚が説くには、礫石の弁天様は慶長5年(1600)出羽合戦のおり、上杉勢の総大将・直江兼続(なおえかねつぐ)が小滝街道を進み、椿峠を越えて、最上義光攻めの勝利を祈願し出陣式を行った場所であり、切断された台座石の切り口から結ぶと、北東に山形城、東南に長谷堂城、上山城を正確に指している。直江兼続という武将は秀吉の朝鮮出兵にも派遣されており山岳地帯での戦闘に長けた武将だと伝えられています。
 当時は敵方ともいえる勢力が残して行った文化遺産ともいえるのではないでしょうか。(飯野武志)

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● ツブテ石伝説 ー大岩を投げ飛ばした朝比奈三郎義秀 

 西山形には少年自然の家の近くに礫石というところがあります。ここに伝説の大石「つぶて石」があります。優しくて話好きの高野好(よしみ)さんは、高野家に代々伝わる西山形の「つぶて石」の話を子供たちに語り伝えて来ました。さて、その物語は…

 むかし、あったけど。今の仙台市の近くの村に朝比奈三郎義秀という体の大きな、若くてたくましくて力持ちの男がいたんだと。  力自慢の三郎が大石を肩さ持ち上げて声勇ましく山寺に向かって石を投げたんだと。大石を肩さ担いで深く息を吸い込み、目を見開き、エイ、ヤアーと掛け声勇ましく飛ばしたと。大石は空高く舞い上がって、ぐんぐん飛んで山寺へ落ちるどころか山形の町を越え、西にひときわ高くそびえ立つ白鷹山の中腹さドッシーンと大きな音を立てて落ちたど。
 山は大きくゆれ動いてまるで地震のよう。木々はザワザワと揺れて風をおこし、大騒ぎしたと。鶏は卵を生むのを忘れ、山羊と牛は乳を出すのを忘れ、猫と犬は騒ぎまわったど。
 騒ぎが収まったところで、山の中腹を見ると大きな石が突き刺さって、その石には三郎の手形が残っていたど。
 それで大石の落ちたところが礫石(つぶていし)と呼ばれるよ、つになったんだと。今度、礫石さ行ったら見てけらっしゃい。どっびん。  西山形の礫石には今も朝比奈三郎義秀の投げた巨石の塊があり、大事に祀られています。その空を飛んで来た大岩というのは蔵王連峰の火山が爆発して飛んで来たのだろうとも言われています。
 朝比奈三郎義秀の力自慢の話は西山形ならではの興味深い話です。と言うのも、この怪力の主は、実は鎌倉幕府を開いた源頗朝と縁の深い武将、鎌倉幕府初代侍所別当・和田義盛の子なのです。西山形は平安時代末期から鎌倉時代にかけて頼朝の側近・藤九郎盛長が治めた大曽根庄にあり、鎌倉と深くかかわるからです。
 朝比奈三郎義秀は海に潜るのが上手だったという話が伝わっています。それと共に、彼の怪力ぶりは後世に語り伝えられ、江戸の浮世絵にも多く描かれました。  朝比奈三郎は寺山伝説の藤九郎盛長とも関係する武将ですから、西山形に伝わる「つぶて石伝説」はきっとこの土地の歩んだ歴史と関係があるのでしょう。ここでも西山形は中世日本の歴史と深くかかわるのです。 ※勇壮無比の坂東武者が朝日岳の頂上から投げた大きな石は白鷹町の下山にもあります。(散歩道事務局)  

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● 菅谷大聖不動明王 

 不動明王は大威力有り、大悲徳の故に金剛の盤石に座し、大智徳の故に大火焔を現じ大智の剣を執って貧瞋痴(とんじんち)を害し、三味の索を持って難伏の者を縛す。不動明王は大日如来の化身という。 眼病を治すご利益があると信じられてきた。 (現地案内板)
 明治31年(1898年)当地に建立された。不動尊は滝に祀られていることが多いが、この不動明王は湧き水に祀られている。湧き水は水量豊富である。

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● 荒沼大明神 −箱根権現の霊験が沼を生んだ 

 荒沼碑に沼のいわれが次のように刻まれている。
 …荒沼の起源を尋ねなに、今から約570年前のころ、石沢与一、遠藤久七の両名が御里の水が少なくとぼしいので、相州箱根権現にお参りして、分神を頂いてきて神社を建て、北沼を造り始めた。この北沼を大沼、荒沼二沼と言う、この沼によって数百町歩の田を開発した、時の領主最上直家(二代)が先の神社を沼明神と名付けた。この沼明神を村民、氏子が忘れることなく久しく年祭を行い信仰してきた。
 寛永正保ごろ、領主たちはおよそ400年もの間収米を沼明神に献納した。ところで慶安年中(320年前ごろ)北の沼の水が不足しているのを笹原五良右ェ門という人が一人で山を抜き水を引き干ばつから救った。これをみた領主松平総州候が、その功績をたたえて米穀を数多く贈った。又貞享中頃領主松平和州候も新田畑地を贈ってその功を讃えた。
 それ以来、下流の村民が時々沼の修理をしたが、年と共に沼の破損が年々少なくなく、ところが邦君(掘田氏)がこれを見てあわれみ、安政4年7月郡奉行に命じて惨造のため米150俵を贈らせたり、又普請奉行達を派遣して修理工事に当たらせた。
 安政5年(午)秋9月にセキザライ、トイウズマリや堤防の修理が終わった。
 以上のことから邦君(堀田氏)の施した恩恵は計り知れないものがあり、これをたたえて社の前に立碑し、永く伝えるものである。

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● 雪椿群生地 

 ここ白鷹山の麓、大平地区は「ユキツバキ」が自然のままの姿で生育しています。
 山形市と友好都市の大島町は、ツバキ(ヤブツバキ)が有名で、赤くて可憐な花とその木の大きさ(高木)は訪れた人に感動を与えてくれます。  昔、山形も温暖な気候だった頃、大島と同じようにヤブツバキが群生していたと思われますが、だんだん寒くなり多雪地帯にも耐えていけるよう適応(分化)し、このような低木になったとも考えられています。雪がフトンの役目となり枝や葉を保温し、雪と土の間にその身を置き、じっと春を待っている姿は想像すると心打たれます。
 雪椿は雪解けと共にしなやかな枝は起き上がり、木々の間からもれたわずかな光を浴びながら開花を迎えます。開花は4月中旬から5月上旬頃までで、一重で濃い紅色の素朴な花が咲き、秋になると3センチくらいの丸くてかたい実をつけるのです。
 主に日本海側の山地に生育し、県内では、小国地方、米沢の西方、月山周辺から最上郡の雄勝峠にかけて咲いています。白鷹山周辺のユキツバキは分布上、最も北寄りになっており、蔵王連峰などの奥羽山系には咲いていないのが不思議です。
 ここ大平地区から上山市へぬける高森山は「椿姫」の地名があり、ミズバショウと共に、春を迎える花として昔から地元の人々に親しまれています。
(山形市観光協会公式ウェブサイトより:2015年6月)

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● 県民の森 −白鷹山系・みどりの山々 

 豊かな緑をはぐくんだ西山形の人々 県民の森
 今では誰もが親しむ県民の森ですが、この豊かな緑の自然環境が育めたのは西山形の先人たちの力あっての事でした。そのお話を致しましょう…。
 70年以上も前の事です。昭和の初期に起こった世界恐慌は日本をも襲いました。それは農村恐慌とも言われ、私たちの西山形(旧柏倉門伝村)でもその深刻な影響が現れました。娘を売るとか、虎の子の農地を人手に渡すという窮乏生活を強いられたのです。
 当時、山形県は県民に対して糧飯を食べる事、衣服を節約する事、借金を早期に返済する事を説き、米・繭の生産奨励、金肥節約を奨励しました。そうすれば18万円の節約、20万円の収入増となって38万円を得たも同じだと説いたのです。苦しい時代でした。
 そうした状況下で当時の7代目村長・黒沼長助、助役矢矧堅治ら三役は村の議会と相談して不況に苦しむ生活を打開するために、山形県と共同で造林事業を進める事にしました。杉と赤松を柏倉門伝大字門伝板橋山の34町2反8畝歩(34.28ヘクタール)の山に植えようとしたのです。昭和4年から64年までの61年間にも渡る長い計画です。これは皇太子殿下(昭和天皇)行啓記念事業とされ、柏倉門伝村は山形県と木々を育てる契約を結んだのです。
 植林は村の人々が行いました。4月下旬から5月中旬の間には残雪を踏んで杉起こしをしました。雪の重みで倒れた杉と赤松の幼木を縄で結わえて起こすのです。7月の中下旬、土用の暑い盛りには蜂に刺され蝮に出会い、汗を流しながら下草刈りをしました。作業は青年学校の生徒、小学校高等科児童も勤労学習で参加しました。みんなの力が合わさり、20年以上もこうした作業が続けられ木々は丈夫に育っていったのです。

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● 五番御神酒湧水 

霊峰白鷹山は、山ふところに抱かれたこの凹地に直上湧出する真清水の泉は、往時から聖地として白鷹山の信仰と深い関わりを持って来た。
伝説によれば白鷹山虚空蔵菩薩本尊が御室から出られたとき、御尊体を洗い清められたという。
白砂の中から無数の砂粉とともに湧出するさまは敬虔であり神秘的である。
古来伝説の地、大自然の中に身を委ね、さまざまな想いにふけるのも又格別であろう。
(山辺町観光協会 現地案内板より)



























水芭蕉と雪椿 大平の水芭蕉群生地1 大平の水芭蕉群生地2 大平の雪椿群生地1 大平の雪椿群生地2 ふれあい展望台より1 ふれあい展望台より2 ふれあい展望台より3 ふれあい展望台より4 ふれあい展望台より5 ふれあい展望台より6 富神山山頂より1 富神山山頂より2 富神山山頂より3 富神山山頂より4 富神山山頂より5