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出典:西山形振興会 『西山形の散歩道』



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● 富 神 山 (とかみやま)

東北の山は神々の山である。其の昔、とかみの山は神として国の律書にその名を連ねた。
「出羽の国の利神に従五位下を授く(三代実録)」

西山形のシンボル
 標高402メートルと特に高い山ではないが、平野部に突き出た美しい三角錐の山容と、山頂の眺望の見事さで、多くの名山ガイドブックに出ている「おらだ自慢」のお山だ。
 今から1500万年ほど昔、白鷹山火山系の噴出したマグマが固まった安山岩の山で、長い間風雪に浸食されて今の形になったという。

出羽合戦の舞台
 富神山が歴史上有名になったのは、慶長5年(1600)9月、豊臣・徳川天下分け目の関ケ原合戦の余波戦、豊臣方上杉軍直江兼続と徳川方山形城主最上義光との合戦の場となったことである。
 関ケ原合戦で豊臣方の敗戦を知った上杉軍は撤退、それを最上軍が追撃し、そのもっとも激戦となったのが富神山山麓であった。陣頭指揮した最上義光の兜に米沢銃の弾が当たり、筋金が損傷したほどに激しい戦いであった。その兜が「最上義光歴史館」に陳列してある。
 そして今、山形城跡にある馬上の最上義光銅像の鉄杖は富神山を指しているという。

トカミヤマという呼び名のいわれ
1.十日見山
 慶長5年9月13日、畑谷城を陥(おと)した上杉軍の大将直江兼続は富神山に登り、遥かに山形城を望見したが、霞(かすみ)がかかって見えない。…十日間も見たので「とうかみ山」と言うんだど、だから山形城を「霞(かすみ)ケ城」と言うんだど、という話がある。
 こういう話は、源義家の「矢ぼろき山伝説」と共に、いわゆる民話であって、似たような話はたくさんあるかも知れない。
2.戸上山
 前述、慶長の合戦を記した「関ケ原戦記」「上杉家記」等には大体「戸上山」とある。
3.戸神山
 宝暦10年(1760)、村木沢村名主渡邊綱言の書いた「御巡見様御下り御案内記」(研究資料第一号所載)には戸神山とある。
4.富神山
 現在の正式名称。明治5年(1872)の大字柏倉文書絵図には「富神山」とある。
 明治3年、新政府は土地・人民の詳細調査書の提出を求めており、明治5年、壬申(じんしん)戸籍、地券発行等により「富神山」と固定したと考えられられる。
 つまり、古来この山は「トカミヤマ」と呼ばれ、後に漢字を当てたから表記が一定せず、それだけ古くから特別視された山名なのである。麓の大之越古墳や八幡様の森から出土した旧石器がその古さを証明するだろう。

神体山「トカミヤマ」
「トカミヤマ」と称する山は、近くは千歳山の南の戸神山がある。県外では宮城県仙台市秋保に戸神山があり、さらに日本全国を探せば、安来節に唄われる島根の十神山、柏倉の地名を持つ群馬の戸神山、壱岐神道の角上山、三河富士と呼ばれる愛知三谷町の砥神山、また、山という名称ではないが、大分・津江三山の一つ渡神岳などが知られる。
 これら凡ての「とかみやま」に共通するのは富士山のようにピラミッド型の山容を持ち、たいてい「神様の坐す聖なる山」で、山頂や麓に神社などが存在することである。
 特に、愛知県三谷町の砥神山は、通称「三河富士」と言われ、砥神神社の奥宮だが、インターネットの写真で見る限り三角山だけれど、わが富神山ほど端麗ではない。砥神山を紹介するホームページでは、山の幸が豊富だから「富神山」と呼びたい、とある。
 富神山は太古以来、山そのものが神。従って、今山頂に秋葉様の石祠等があるが、それは近頃の事で、古来の姿を今に伝えているのは東南麓の柏倉上丁に祀られる「富神明神社」である。(結城 敏雄)
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● 三島神社 (みしまじんじゃ)

 三島稲荷は、慶長年間(年代不明)にまつられました。当時は、門伝館主の伊良子弾正が通った三島通り(旧道)沿いに三角形の土地があり、ここに万年堂が鎮座されています。江戸時代中ごろ南東に約100メートルはなれた現在の地へ移転したと伝えられています。最近まで万年堂の跡地のみ残っていましたが、圃地整備事業により姿を消してしまいました。稲作、商売の神としてまつられており、祭日は、9月17日です。(境内案内板より)
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● 洞渓山 皆龍寺 (かいりゅうじ)  キリシタン宣教師ゆかりの寺

 大ノ越古墳が物語るように、門伝一帯は古い歴史を持っている。天平5年(733)行基菩薩の開山といわれる真言宗七ツ松山地福寺もまたその象徴であった。
 承元4年(1210)富神山の麓・切神に、地福寺の末寺「五福院」として草庵が建てられたのが皆龍寺の前身であると伝えられている。
 時は流れ、元亀元年(1570)いわゆる石山本願寺と織田信長との戦いが始まっていくわけだが、五福院の時の住職も檀信徒とともに出陣している。そして、30年後、いわゆる長谷堂合戦が始まり、この門伝一帯も戦火と化していった。この渦中に地福寺をはじめ、吉乗院・五福院・長泉寺・長松寺もことごとく焼き尽くされてしまったのである。この事からも戦火の激しさが想像されるが、詳細の所は諸先生方の貴論を参照されたい。
 戦乱の貧困から立ち直った慶長19年(1614)荒屋敷(大ノ越古墳の北東の辺)に本堂が再建されたが、当時の宗教事情があり、寛永16年(1639)本願寺第13世宣如上人にご本尊阿弥陀如来と皆龍寺の寺号を拝受するまで、なんと25年もかかっている。
 その寛永年間の頃、現在の皆龍寺の地は処刑場であり、この場所で寛永2年(1625)キリシタン宣教師が処刑された、と伝えられている。のち、登城の武士が突然落馬したり妙な出来事が起こるので、当時の城主鳥居忠政が供養のために盆栽松を植樹したのが現存している。しかし、妙な出来事や噂が日増しに広がっていった。
 村民はその供養のために、長泉寺か皆龍寺かどちらかを移転しようと議論した末、皆龍寺が現在地に移転せられて、現在に至る。
 この歴史を顧みると、全て人間が人間を殺戮してきた歴史だったことに、悲哀を込めて結びたい。(榊 法存)
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● 作翁山 長泉寺(ちょうせんじ)   二束三文の鐘が国宝に

 長泉寺は山号を作翁山、寺号を長泉寺と言います。寺の創建は文禄元年(1592)、ちょうど豊臣秀吉が初めて朝鮮に出兵した年でありました。長泉寺の前身は白鷹山隆盛の頃の真言宗の寺であったそうですが、それらの記録は残念ながら留めておりません。その真言宗の寺が時代と共に荒廃した頃に、これを再興して曹洞宗長泉寺を再興された方が、北山形龍門寺の第7世大中礎淳大和尚という方であります。
 さて、一昔前の村のお年寄は「長泉寺と木端は立てると燃える」などと言ったものでありました。
 長泉寺はこの四百有余年の歴史の中で2度の火災にあっています。1度目は慶長5年(1600)の関ケ原の戦の東北版、御存知の出羽合戦の時です。門伝という村はその昔はもっと山手の方にあり長泉寺も富神山の麓にあったそうですが、戦火で村共々、寺が焼けてしまったのです。
 その後、寺は「門伝舘」の跡に移転して再建したのであります。そして、2度目の火災は天保元年(1830)4月12日の夜のことでありました。この火災の時の第16代目の住職は責めを負い東根のお寺に隠居しますが、その心情を切々と説いた手紙が残っています。この住職は後に村山市の土生田の渓永寺の住職になりますが、それでもまだ責任を感じていたのでしょう、焼失した本尊様を新たに迎える資金として10数両のお金を長泉寺に寄せております。
 ところで、長泉寺には「長泉寺の焼け鐘」というのがありました。廃仏毀釈で廃寺になった寺から譲り受けたらしいのですが、これが聞くに堪えない音色の悪さであったらしく、それゆえ二束三文で売り払ったのです。ところが、数年後、この鐘が国宝に指定され現在は埼玉県の深谷市の寺で保存しています。廃仏毀釈で廃寺になった寺とは、今のもみじ公園にあった山形城主歴代の祈願所である「宝幢寺(ほうどうじ)」と言う寺で、その鐘は豊臣秀吉が「天下一の称号を与えた「西村道仁」という名鋳金工に最上義光が作らせた物だったのです。(長沢 俊英)
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● 八坂神社(やさかじんじゃ)  

 八坂神社縁起書によれば、長和2年5月(1013)に創建され牛頭天王を祀り、当時富神山の麓「切神」にあり、門伝村の神として鏡座し、七ツ松地福寺の管内にあったと伝えられる。以来、当地方きっての由緒ある社であったが、慶長5年(1600)の役に米沢城将直江山城守兼続が山形を攻めた際、一村兵火を蒙って消失したため、全村民挙げて現在の大字門伝地内に移転を決行し、同時に八坂神社も当所に遷座されたと伝えられる。
 降って元禄16年(1703)、蓮誉炊西という法師が杜殿のあまりにも見すぼらしい草堂を憂慮し、信徒丹野孫左衛門と相計り、医王の霊像を安置し造営したことが起請文によって明らかである。守護神としての大神は、村々に天災地変や冷害や疫病の蔓延の際には、その難を除いて村人を救われ、霊験あらたかな慈悲深い神として近郷近在の多くの人々の信仰を集めたと語り伝えられている。
 その後多くの遍歴を経て、二百十余年風雨にさらされ荒廃の姿が目立つようになったが、たまたま山形市役所新庁舎建設に伴い、湯殿山神社の拝穀を譲り受けることができ、千載一遇の機会と氏子一同大いに歓喜、地区民全員加入による奉賛会を組織し建立事業をなすに至った。実施するに当っては、先づ用地拡張の協力を得て、社務所兼公民館の新設を計画実行した。旧拝穀は宝物穀として残し、また境内の北端に祀ってあった能野神社は併社として本殿に合祭した。
 杜殿建立にあたっては、地区民の絶大なる協力は勿論であるが、大字門伝の共有田(260名所有)並に県行造林持分の寄進等貴重なる財貨を寄せられ、ここに崇高なる社殿及び社務所の完成を見るに至ったのである。
 富神山の東、水清く緑豊かな門伝の里が、子々孫々に至るまで安住喜楽の地として未来永劫に繁栄することを祈念して、ここに記するものである。(加藤 輝雄)
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● 大之越古墳(だいのこし こふん)  1500年前、郷土を支配した王とは?

 大之越古墳とは何か
 考古学の権威・小林行推さんが書かれた『古墳の話』岩波新書・昭和39年)の中に、こんな事が触れられていました。
 …私どもが、各地の古墳の研究に出かけた時に、土地の人からかならずたずねられることが二つある。それは、「この古墳はいつ頃のものか」ということと「だれの墓か」ということである。いつ頃かについては、古項の規模・副葬品から推定して答えは出せるが、だれの墓かについては、「わかりませんね、多分、この地の有力者だったはずですが」と答えると、はっきりと失望の色が顔に表れます。土地の人の最も聞きたい事だったからでしょう。
 大之越古墳も例外ではなく、古墳が築造されたのは5世紀の後半で、被葬者は山形盆地を支配した首長と推定されると発掘にあたった県の教育委員会が調査結果を出しております。1500年以前に、我々の祖先としてこの郷士を支配したのはだれだったのか…
 たまたまそのような話の時に、越族との関係があるのではないかと話が出ましたが、恐らく大之越という地名から推測されてのことと思われるのです。大之越古墳の疑問を解く一つの足掛かりになるとして越族についての資料を探し求めることにしました。

 大之越古墳と越族(こしぞく) はどんな関係があるのか。
 幸い手元にある「山形県の歴史散歩道」の中に、小国町・大滝地区にある古四王(または、越王)神社のことが載っているので引用してみます。
…越族は、今の中国旧満州から渡来し、日本民族と融和混血し長期間にわたって難儀した。そこで、母国をしのんで種族の祖先を祀ったのが神社の縁起とされ、日本海側の新潟、山形、秋田県に多く分布されている。その中で荒川渓谷沿いに小国に入り、大滝の地に越王神社を残し、宇津峠を越えて置賜盆地に入り、長井、西根、高玉、鮎貝にもそれぞれ越王神社を残した。ここから更に長谷堂を通って山形方面に達し、他は更に最上川を下って北上する進路が考えられる…
とすると、この資料を見る限り越族が山形盆地に入ったことは確かなことであり、大之越古墳の被葬者も越族と関係がないとはっきり言い切れるものでもないと思われます。
 大之越古墳の被葬者は大いなる越の人という民族としての誇りのなかで眠り続ける我々の祖先かも知れない。

 参考 
 大之越古墳は昭和53年4〜5月にかけて発掘調査が行われた。「畿内の政権はもとより、古代東アジアの動きや文化とも何らかの関係があった」(「大の越古墳の調査概要」山形県教育長文化課・昭和53年5月)と調査の概要が報告されている。(西村 忍)

 発掘史上日本で最も古い大之越古墳の単鳳環頭大刀
 村山盆地の南西端にあるとんがり山、富神山のふもとで78年、道路工事中に古墳が発見され、大之越古墳と名付けられた。古墳はすでに見当たらず、遺跡をめぐる溝により、径16メートルの円墳と推定された。5世紀末ころの築造で、今は整備され史跡公園となっている。
 石棺は二つあり、環頭大刀、直刀、鉄剣、鍛冶具のはさみや馬具が副葬されていた。中でも、権威の象徴ともいえる単鳳環頭大刀は鉄製金装で長さ948ミリある。柄頭(つかがしら)の内環には鳳風(ほうおう)の意匠があり、]写真でタガネ彫りによる銀象嵌軟(ぎんぞうがん)の様子がよくわかる。発掘例の単鳳環頭では日本最古式である。出土品は山形県指定文化財となり、山形県立博物館に展示されている。
 環頭太刀は中国が起源とされ、朝鮮半島を経て日本に導入された。(「学芸員の宝物」朝日新聞2004年2月21日−山形県立博物館・学芸専門員安部実−から)
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● 柏倉陣屋(かしわぐらじんや)  堀田藩山形分領 46ケ村を支配

 柏倉陣屋は、総州佐倉城主(現千葉県佐倉市)堀田11万石の内、約4万石の山形分領46ケ村を支配する役所でした。今の柏倉の小字「舘」(宿島、塩幸田の一部)周辺にあったのです。南北百余間(西部児童館から塩辛田の地蔵様まで)東西六十余間(山形電子・北あたりまで)、約3町3反2畝歩の広さ、四方を石垣で囲み、東正面にはお堀が水をたたえていました。
 表門は、今の児童館の南西辺りに東向きにあり、門の前は広場で「高札場」(今の掲示板)と呼ばれていました。
 表門を入ると、すぐ「お役所」が東向きに建っており、いろいろな行政事務をとっていたのです。その奥には藩校「成徳書院」(せいとくしょいん)の柏倉分校「北庠」(ほくしょう)があり、武士だけでなく領内の百姓も学べた、当時としては随分開かれた学校で、各村の村役層育成に大きな力となっていたことは注目すべきことでしょう。『柏倉門伝村史』には、北庠に「算術」はなかったとありますが、それは誤りで、佐倉藩の資料によると「北庠の算学教師」が任命されており、算術が教えられていました。
 学校の西には中村羽右ヱ門の「郷宿」(ごうやど)(陣屋に用があってきた人たちの宿泊所)がありました。
 「お役所」の周囲には、奉行や代官はじめ各役人の住宅があり、その他、倉庫、馬小屋、工作所、鍛冶屋、牢屋など大体40棟くらいの建物があったようです。
 陣屋のおよそ真ん中に稲荷様があり、今の堀田永久稲荷神社がそれで、陣屋時代からある唯一の建物です。
 陣屋の南には「割元」(大庄屋)中村五兵ヱ屋敷の石垣が往時を偲ばせてくれます。
 今、中林山の上が墓地になっていますが、陣屋の調練場(ちょうれんば)で、鉄砲や用兵訓練したところでした。
 陣屋には、大目付、奉行、物書、吟味役、学校都講、蔵方、勘定方、装束方、山方、勝手組、先弓、鉄砲細工、医師、各手代など大体40人以上の役人が居たので、その家族や使用人などを含めると陣屋内には大体7〜80人は生活していたことでしょう。
 柏倉陣屋を今の場所に初めて設置したのは延亨四年(1747)、福島県の棚倉城主・小笠原氏で山形分領2万石(22ヶ村)支配のためでした。その後、宝暦13年(1763)に堀田氏に引き継がれて以来、一時幕領になったり変動しますが、明治4年(1871)、陣屋廃絶まで百余年の長い間この西山形地区は治下46ヶ村の中心地でした。それで、今までも陣屋のお膝元というプライドを持ちつづけたし、今後もよい意味でそうありたいものです。(結城 敏雄)
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● 堀田永久稲荷神社   柏倉陣屋4万石を守った「いなりさま」

 堀田永久稲荷神社。これが陣屋の「いなりさま」 の正式な御社号(おなまえ)です。
 明治維新まで堀田藩山形分領4万石46ヶ村を支配した『柏倉陣屋』の守護神として、大体陣屋の中心地に石垣高くおまつりされてきたのです。ここが堀田藩の陣屋になったのは、宝暦13年(1763)で7月15日ですが、その年の9月15日すぐお稲荷様をおまつりしました。お稲荷様は食べ物の神様、五穀豊穣、商売繁昌に御利益がある神様ですから領内46ヶ村の繁栄の為、大もとの京都の伏見稲荷様(現・伏見稲荷大社)から御分霊をいただいてきたのでしょう。それから十年後の安永2年(1773)8月に、この稲荷様は「正一位」と称することを正式に認められました。
 それから約100年、明治4年(1871)、廃藩置県で陣屋廃絶、9月には諸施設すべて取払われましたが稲荷様だけは堀田様の所有として残りました。(結城 敏雄)
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● 柏倉八幡神社   遠く古代にさかのぼる「祭り」の場

 特異な山容をもつ「富神山」。その前面の高みに黒々とした「八幡様の森」。この森は12000年以上の太古から、恐らく八幡様を祀る遥か以前から特別の場所で、人々が集い「まつり」などを行う「聖地」ではなかったろうか。それは、境内から四方を見渡し古代の人々に思いをはせると、自然とそう思えます。
 全国でも特に古い神社は、何等かの意味で特に神聖な「まつり」の場にあり、それがやがて時代と共に神殿が建ち社名や御祭神が固定してきたというのが多く、当神社も多分そうでしょう。最初から城下町形成などで人為的に特定の場所に社殿が建てられた神社とは違うのではないかと思われるのです。
 その証として、我が西山形地区は旧石器時代から縄文・弥生の遺跡が多数出土し、古墳時代(5世紀)大之越古墳(7世紀)条里制跡の確認もあります。また、当八幡神社の山形市指定文化財の「女神坐像」は平安末期と推定されていることでもわかりますが、この土地は古くから摂関家の支配する、いわゆる「王化」が特に早かった古くからの良地であったという史実がそれを証明してくれるのでしょう。
 大体、八幡様が歴史に登場するのが八世紀。奈良の大仏建立に九州宇佐八幡宮が協力したということで奈良に手向山(たむけやま)八幡宮が祀られ、平安遷都と共に王城鎮護神として京都男山に石清水(いわしみず)八幡宮が、そして鎌倉幕府成立と共に、政治の中心地であり源氏の守護神とした八幡神を石清水宮から鎌倉鶴岡八幡宮へと勧請(かんじょう)され、次第に八幡神は源氏一党の東北支配と共に祀られ、山形県でも主として政治の中心地に奉祀されました(例 山形・寒河江・谷地・成島等々はみな城館跡)。
 当柏倉八幡神社の創建もそのように、石清水八幡宮で元服し八幡太郎を名乗った源義家が、康平6年(1063年)この地に奉祀したと由緒書にあります。(結城 敏雄)
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● 七森山 明源寺(みょうげんじ)   明源和尚が再興した寺山毘沙門

 言い伝えによれば、治承2年(1178)源頼朝の重臣安達藤九郎盛長が、山寺立石山寺に於て、源氏の再興を祈願中、毘沙門天の夢想のお告げにより、此の地より西方にヒコバエ杉の生ずる所あり、一宇を建てる様にとの事、真妙寺、柏蔵院、毘沙門堂を建立したのでした。真妙寺は本沢に移り西養寺と成っております。
 寛永年間に至り、越後より真宗の僧、明源和尚此の地寺山に住し、念彿を唱え、教化したとあります。慶長11年3月(1606)徳川2代秀忠代です。明歴元年3月4日(1658)遷化す。以来、寺号を七森山明源寺と言い、2代伝慶和尚代に戴いた寺号の認可証、また阿弥陀如来尊像等を下渡され披露したとの事でもわかります。延亨3年(1747)、柏倉に陣屋が置かれてより菩提寺として廃藩に至るまで永く隆盛をきわめたのであります。今に残る代々の墓と位牌が物語っております。名代官として有名な田内与七郎成伸の墓も夫婦共々建立されております。
 現在の本堂は安永8年(1779)4月20日建立、昭和42年4月屋根改修工事の時出てきた棟札に陣屋の関係者、総代、地区有力者を始めとして、門信徒一同の力で建立されたのでありました。詳細に記入されております。
 平成に入り、郷土史研究会のマップの基に、寺山の五輪塔整備、昆沙門池の地元等にお力添え戴きました事 有難く思っております。
 毘沙門堂も明治31年(1899)講中の人々によって境内地に移り、4月29日が毎年の祭典に成っております。慶長の役より400年が過ぎましたが、此の地館に任してより段々の畑よりは縄文土器石器が出、下流には富神沢が流れ、急峻な坂を見ると、自然を生かした最高の館であるように思えます。
 境内の石垣はおたすけ石で、本堂建立と同時期のものです。地区民、壇信徒の力で集められ積まれたものなのです。(柏倉 玄神)

明源寺の縄文石器
 この地は中世の館跡(たてあと)になっており、また、何千年も前の縄文時代の人々が生活しておった跡もあります。
 縄文式住宅の跡、火を使った跡、鏃(やじり)などの石器を作った跡などが当山の畑の中から見つかっております。
「お寺の裏の畑からは石器が出るんだ」という話は前々からあったようで、石器を少しは集めた人がいたようですが、今では持っている人も少ないようです。
 当山では、代々少しづつ集めておりましたが、石器のことを学校で習うようになってからは更に熱が人り、時間があればそれぞれ畑に行き掘り出したり拾ったりして、今では相当数の数が集まり、数にしたら多いほうだと自負しております。石器を集めてもなかなか整理もできずにいる方が多いかもねー。県内の資料館・博物館、また県外にまで足を伸ばして石器を見学しておりますが、石器収集の数は当山のほうが多いかなー、などと考えたりしております。
 整理が付いた石器の一部ですが、見るたびに、その一点一点を初めて手に取ったときの感動は学校時代も今も少しも変わりません。石器発掘はこれからもまだ続くことでしょう。
 当山出土の石器は小さい物から大きな物まで出て来ていますが、数千年の永い間、ここで生活していたんだなあと、石器を手に取るたびに感動しております。
 朝日を受けての生活。夕日を受けての生活。東山の方よりも西山の方が歴史上早期に開け、そのすばらしい歴史が続いているんだ、と考えております。
 また、縄文時代の後期になりますが、当山からは環状列石(ストーンサークル)の立石も山てきております。この館の地には少なからず、小さい物から大きい物まであったものと考えられます。
 環状列石の立石の大きい物では上丁の富神明神社に出土した物が有名です。明神様の環状列石は調査後に埋め戻しが行われましたので、今は境内地の土の中ですが、見学された人も多くいたようです。(柏倉 玄神)
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● 富神明神社(とかみみょうじんじゃ)   東北最大級のストーンサークル

 昭和52年の発掘調査に「窪遺跡の環状列石」がある。これは大体今の富神明神社の境内あたりで発掘され、縄文時代の祭祀跡と考えられている。環状列石とは円形に石を並べて特別な場所を示したもので、窪遺跡では半径20から24メートルの円弧状の列石が出土したが全体の大きさは未定である。
 普通、南から北を拝して神を祀るのが通例である。われわれの遥か祖先の縄文の昔から「おまつり」をした場所に、後代になって今の富神明神社が建立され、富神山を礼拝し続けてきた実証であろう。
 そうしたいわれをもつ富神明神の御社殿は、高床の一間社流造り(柱間約七尺)、全体に古風を守り、組物も確かで、誠実な古く良い建物である。貞享3年(1686)の棟札が現存している。
 昭和37年、郷土史の第一人者武田好吉氏が、この神社のご神体と称する高さ約1メートルの男神木造を調査拝見している。山形県文化財保護協会の「羽陽文化」82号所載の報告によると、台座共1本造りで、烏帽子、袍、拱手が表され、明らかに御神像で14世紀頃の作と推定されている。
 古来、神まつりに「像」は必要なかった。地鎮祭はその一例である。仏教の影響で造像されても、本来仏像と違い人目に触れることを目的としないから、簡素な造りが多い。従って神社に御開帳はない。秘して人目に出さないのが普通だから、富神明神社神像も厚く「コモ」に包まれ、古代の「真床覆衾(まどこおふすま)」の古例を今に伝えて貴重である。(結城 敏雄)

 ストーンサークル(環状列石)は東北に多い。秋田・大湯のストーンサークルは直径40〜48メートル。西山形柏倉のストーンサークルは直径40メートルでほぼ同規模。墓地あるいは祭祀場として使用されたと推測されているが、その事実は不明。西山形のストーンサークルは昭和の圃場整備の際、取り付け道路の工事をしているときに偶然発見され、発掘調査が行われた。柏倉の縄文遺跡群のひとつ。
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● キリシタン地蔵 

 我が家の裏の田にキリシタン地蔵として代々語り継がれ、祀られてきた地蔵様があります。高さは五十センチぐらいです。いつからあるのか、何のために、また、本当にキリシタン地蔵なのか。文書などの証拠はありませんが、ご近所の皆龍寺様がキリシタンとかかわりがあったと「狐越街道史」にありますので、何かやはりそんな関係があるのかと思います。
 父・睦夫の話によると山大教授やドイツ人宣教師が来宅され調査されたとのことです。その父が祖母より聞いた話によりますと、お地蔵様は丸いお顔だったそうですが、いつの頃か、お地蔵様が祀られている側が田の水路の三分岐点だったため、夜水引きの力自慢に投げられて胴体は半分に割れ、頭も紛失し、現在は仮に丸い石をのせております。
 以前、山形西高等学校の長谷川晴子先生(山形旧市文化財保護協会員)が調査をされて、お地蔵様は干(かん)クロス(十字架)を左手に載せ、右手を添える形状であることがわかり、また、台石には「徴」という文字が刻まれているとのこと、「徴」とは干クロスを指すとのことですが、あまりにも風化が激しくて、私共が見る限り定かではありません。平成10年、田の中から干クロスを刻んだ平たい割れた石が出てきました。皆龍寺の老師に見ていただいたところ台座の部分ではなかったか、とのことでした。
 冬至前から春彼岸までお地蔵様に雪除けの蓑(みの)を着せること。旧暦の9月24日にお祭りを行うこと。これが我が家に語り継がれ守られてきたことです。父・睦夫が亡くなり蓑を作ることもなくなったので、平成14年に生前父の願いだったいわゆる万年堂の覆屋を献じました。長谷川先生が何度もおっしゃった「いつまでも大切に守り祀ること」を心に刻み、この地蔵様を次代に伝えて行くつもりです。(高野 稽理)
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● 門伝館跡(もんでんやかたあと) 

 大字門伝の北方に杉林の森がある所が門伝館跡です(飯野吉右衛門屋敷)。鎌倉時代の五輪塔があり昔から館があったようです。
 出羽合戦慶長5年(1600)の時に上杉家臣総大将直江山城守(兼続)と山形城主最上義光公と合戦した時に最上家臣団の一人者、伊良子弾正が門伝館主として陣を築いた武将であったと伝えられています。様々な古文書や逸話がありますので綴ってみます。「最上義光分限張」に、高千石伊良子長門守屋敷は、二ノ丸下条口だったそうです。伊良子弾正は、築城工事や色々工事に関係の仕事をなされた方と言い伝えられ、門伝館の工事をなされました。又、富神山の西、曲森山、寺山が門伝館跡との説もあります。門伝館は東方が表門で、北西方は堀がとりまく跡がありました。昔から小字名を裏城と言われていました。現在でも登記は字裏城であります。
 伊良子弾正には二人のお姫様がおりました。妹姫は長沢頼母(長沢善兵衛宅)に、姉姫は高野蔵人(高野伝左衛門宅)に嫁にこられたと言われております。伊良子弾正は、飯野総本家であると伝えられております。最上家旧家臣の系譜によれば、伊良子信濃守、長門守、主水、伊予、弾正、監物、長右門等の名があり、重複するものもあるかも知れませんが、いずれも一族であるとあります。(武田 辰巳)
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● 塩辛田の地蔵堂(しおからだのじぞうどう)

 塩辛田の地蔵堂は、別名、塩辛田の地蔵尊ともいいます。1687年に建てられたものとされます。
 この地蔵尊は大字柏倉児字墓(ちごはか)の地に古くから建っていたものを地域の人々が現在地のお堂内に安置し、講中で信仰を続けて来たと伝えられています。
 昔から、この地域内で火難を被っても大事に至らなかったことから火除けの地蔵尊として信仰されています。
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● 宿の地蔵堂(しゅくのじぞうどう) 

 宿にある地蔵様
 伊藤吉郎屋敷に祀られてある宿部落の守り地蔵として信仰を集めている。昭和迄は子守達が堂に集まり、おんぶしてきた子供をおろして地蔵様に守ってもらっての遊びの場であった。
 女衆によって講がつくれて今の吉郎宅を宿にし、お互い重箱に料理を持参し地蔵様に供え、地蔵様と共に食事し信仰されたが、時代の流れとともに今日では講が消威したが、毎年どなたかが新しい着物と前かけを着せてあげるのか、毎年新しい着物を着て大衆を見守っている。以前は4月15日が例祭で向屋敷で芝居等を演じて見物させてくれた時代もあった。
 今は4月29日が例祭となり、若者が主体となって祭りが行なわれている。

地蔵様の建立
 文久3年の二度の大火で丸々焼け、中村五兵衛、中村羽右ェ門二軒のみが残ったと記録が残されている。二度目の火元は地蔵様北堰と道路で四メートルくらいしか離れていない家が火元であり、早くて文久4年厄災除けに建立されたものと思われる。地蔵尊像も左手に錫杖右手に宝珠を持ちて火除御姿の地蔵尊像なれば、火難除きとして火元の隣の地を選び、堂も土蔵造で他には見られない堂であり、よく調べても焼跡は見当たらぬ。
 「郷土の歩み/舶倉の歴史」(昭和62年発行/結城義吉著)34ページから抜粋
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● 県立柏倉門伝高等学校碑  「学恩之碑」 

 西山形小学校の庭の一角に「子供たちよ よく学び よく育てよ」と呼び掛ける学恩之碑が鎮座する。横2メートル、縦1メートルの石版石からなるその碑には、肉迫溢れる大文字が左から右へ、「学恩之碑」と篆刻(てんこく)されている。当時の山形県知事・安孫子藤吉氏の筆跡がそれである。そして、その文字の下に、これは右から縦書きに結城哀草果先生書、県立柏倉門伝高等学校の歴程を讃えた碑文が芳述されている。この碑建立の源を訪ねれば、次のような経緯となりましょう。
 昭和20年、戦に屈した日本の混沌たる世相に、けなげにも投げ掛けた指導者の言葉に、「外に失いたるものを内に求めよ」と。そして、大きく揺すったのが、六三三四制と呼ばれた学制の一大改革だった。
 学問のなさに何時の時代もしいたげられて来た農民の悲惨さと貧困から起ち上がりたいとの希いが、当時の青年学校生徒達の念頭にひしめいていた。そして、新しく設けられる高等学校の誘致こそ地区後世のためにもと、当時の自分達に課せられた重大な責務である事を自覚すればじっとしては居られなかったというのが実感であった。
 青年学校高学年の生徒達は青年団にも応援を頼み、婦人会の会合にも時間を貰い、新制高校の必須制と時の急務を力説して歩き、また、村会議員の方々を個別に訪ね、誘致の労をお願いして廻った。
 時あたかも米軍の治安下にありましたので、駐留山形司令部にはナン司令官(中佐)がおりました。時の黒田清哉村長さんは心を鬼にして決死の覚悟を秘め司令部の門をくぐり、ナン中佐と会ったという。ところが村長さんの思いにも反して中佐は事の次第をねんごろに聞き、向学に燃える青年達の挙動を称賛して柏倉門伝の高等学校設置に同意してくれたという。
 青年学校は廃止され、昭和23年5月3日、中学校の門札と相対して木の香も芳しく、山形県立柏倉門伝高等学校の門札がかかげられた。働きながら学ぶ青年達400余名の生徒達を迎えて開校式が行われた。内村権四郎校長の開校の式辞に始り、入学生を代表して川田壬子雄(みねを)氏の誓いの言葉が奉唱され、新たな高等教育の光は西部地区の青年達を大きく激励した。昭和28年に至り一層同校の高揚が計られ、柏倉八幡森東側高台に堂々たる木造独立新校舎が建設された。そして、33年、2代目、長塚文一校長の時代に新校歌作成がなされ、作詞に結城哀草果先生、信時潔先生の作曲による校歌が歌い流されたのである。
 しかし、社会の経済成長にともない、時代の若い青年達は定時制を敬遠する者が多くなり、むしろ都会の全日制に進もうとする若者が続出し、柏倉門伝高等学校もその影響をまぬがれる事は出来ず、生徒数は年毎に激減して行くのでした。とうとう昭和37年4月には上山農業高校と大同合併と相成り同校の分校となった。それも長くは続かず、39年、本校への引き上げの余儀なきに至るのであります。
 しかし、恵まれなかった時代にも、前向きな青年達600余名の卒業生を出したこの学校の果たした役割は余りにも大きいものがあった事を覚する時、同窓生相寄って募金をつのり「学(まなび)」に感謝の念をこめて、昭和40年6月建立したのが、学恩之碑なのであります。(中川 清毅)
※「学恩之碑」の命名は哀草果先生。なお、校歌は西山形公民館に掲額してある。
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● 義 家 橋 (よしいえばし)

 柏倉八幡神社拝殿前に「義家橋」という大きないわゆる富神山石が建っている。
 その縁起を刻した石碑がそばにある。昭和3年、村の在郷軍人分会第2班の建立で、土屋東太郎の書、文は西村久次郎、石工和田吉照で、大意は次の如くである。
「この石は、昔から義家橋と云われ大門坂の北百余歩先のT字形の川に架かっていた石橋(奥山忠道さんの前あたり)である。康平年間(1058〜1065)、安倍貞任(さだとう)の反乱(前九年の役)を平定に来た源八幡太郎義家が馬に乗ってこの橋の上から敵状を見た。その時の馬の足跡がこの石に付いているから《義家橋》と云う。また南には《貞任橋》もある。昭和2年秋、橋の架け換えがなされ長く埋まっていたこの石をここ神社に移して由来を記す」とある。
 このような石は、実は全国的にあり、民俗学的には「馬蹄石(ばていいし)」と言われ大体その地に由緒深い英雄と結び付いている。
 注意すべきは「馬の足跡」と言っていることで、馬は古来神様の乗物とされ、殊に八幡神は馬に乗ったお姿で描かれてきた(これに対して、春日神は鹿、稲荷神は狐などという例がある)。だから、このような石は特別神聖なもので、特に八幡様への登口辺りに在ったという深い意味があって、後に源義家と結び付いたものであろう。(結城 敏雄)
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● 中丁の延命地蔵(なかちょうのえんめいじぞう) 

 いつの代になんの言われで祀られ『延命地蔵』と名付けられたのかは分からない。のぼり旗には弘化2年(1845)と記されているからそれ以前から祀られていたことは明らかである。
 古老の話によると、そもそもこの地蔵様は源長屋敷の北西角にあり、一坪もないような狭い場所に祠に祀られており祭りには柏倉八幡様前の行善院の法印が来てお祭りをたてていたという。
 現在のお堂は明治の中頃、柏倉宿の割元(中村辰巳と言い、その子孫は「宿」にはいない)にあった虚空蔵様のお堂を移したのだそうだ。
 地蔵様のご本体は木造、一尺七寸程の立像でなかなか見事なものであったが、昔の子供達が首に縄をつけて遊んだことから頭部は割れて半分は無くなり、いたましいお姿ではありますが、その昔を物語っております。また、ご本尊のそばに石の地蔵様が祀られておりましたが、これはその昔、中川サトさんが若い頃、山形の大旦那の所に奉公しておった折、知り合いの方に特別に願われてお金を貸したのだそうですが、それが時が経ってもなかなか返してもらえず、人の無常を嘆き、憎しみ、悔しさにその人をとことん恨んで、果ては半ばあきらめ心にもなって数年たったある日のこと、突然その人が現れ、遅れたことを深く詫び、そして、丁寧にお礼を申し上げ、金子袋を手渡して帰られたと言う。
 サトさんが袋を開けてみたら、なんと元金の四倍もの大金が入っておりました。一時は身の置き所もないほど恨みましたが、ここにきて人の律儀さに触れたときに、かつてあの愚かな自分は何だったのだろうと回顧を憂い、そして、白分の罪滅ぼしにと熱い心がみなぎり、石屋に頼んで地蔵菩薩を彫っていただき納めたのが本尊の傍らに鎮座している御一体の姿であると伝えております。
 古くは旧暦の3月24日が祭日であったが、戦後、新暦の4月24日に改め、講中衆が朝仕事に竿を立てのぼりを上げ、それぞれの家で御神酒を携え、丹念に作った赤飯や餅など、また早春の野菜、山菜などの煮物、色とりどりの重箱が地蔵様への供物となり町内の参詣客は勿論、道行く人々にも進ぜられるのであります。
 人々の延命と、健やかに育ち行く子供達の安全と併せて、各家族の幸福を願い、全町内をあげてのなごやかな楽しい祭りの一日になるのでございます。また祭りに灯したローソクの燃え残りをいただき、妊婦がお産する時に灯すと安産すると伝えられ わざわざ遠くからそれを戴きに来られる方が後を絶たないということです。(『中丁延命地蔵尊由来記』及び中川源助氏の説明に依る)
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● おたすけ石 

 昔、暮らしに困った人が、当家を訪ねて助けを乞うたことがありました。
 そのとき、「ただ、無闇(むやみ)に施しをしてもその人を本当に助けたことにはならない」と考え、「石を運んできたならば、幾ばくかを差し上げよう」と言いました。こうして多くの人が大石を富神川から引き上げてここに運び、門前におたすけ石が並ぶようになったのです。(現地の案内板より)
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● 貞 任 橋 (さだとうばし) 

 柏倉八幡神社から南へ下ると「中林(なかばし)」への道と三叉路になる。そこに西村力三さんの屋敷にあった水車(戦後ワラ打ちにも利用された)への水口辺りの堰に架かっていた石橋を「貞任橋」と云い、義家橋と一対の直径約1.5メートルの巨石である。
 これも近年の道路改修の際、西村さんの屋敷の元の位置近くに保存され、この辺一帯を「さだ」という由来のしるしとして大切にされている。
 さて、この「さだ」と言う地名であるが、大槻『大言海』に狭田・長田・真田のいづれもが「さだ」とある。また、『日本書紀』には「あめのさだ」が高天原の神田を指している。案ずるに地形からも稲作りの原初となり得た古い地名ではなかろうか。
 八幡様と義家、貞任と絶妙の伝承であるが、この「さだ」道も古い八幡様への道筋で、また、古来三叉路は特別の場所と信じられ、道祖神、賽神(さいのかみ)、後に馬頭観音や地蔵様などをまつることと深い関係があると思われる。(結城 敏雄)
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● お伊勢堂 (おしどう) 

 大字柏倉の共同墓地になっている中林(なかばし)山は、凹地の道路を境にして、西と東が台地になっている地形です。その西側中程の高みに小さなお堂が建っており、オシドウ山と呼ばれ、子供たちの格好の遊び場でもありました。
 オシドウ山という呼び名は、お堂の祭神が伊勢の天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)で、本当は「お伊勢堂山」なのだが、それが訛ってオシドウ山で通じています。
 このお伊勢堂の別当をされているのは、八幡「中(なか)」部落の高橋伝雄さんの家で、これまで代々受け継がれ、祭祀・堂守(どうもり)として勤められています。
 お伊勢堂の縁起は解らないという事ですが、この土地(現在はブドウ園)はかなり以前に買い取ったもので、その時にはもうお堂が建っていたと聞かされていた、ということです。
 お堂にはお祭りに立てる旗と鰐口(わにぐち)があるというので見せていただきました。旗は天照皇大神宮の一対で明治43年4月30日とあり、そう古いものではないようです。鰐口は直径20センチ位の黒ずんだ銅製品のようですが、年号と講中の名前が刻まれています。
 右端に年号が、「安政四丁巳(ヒノトミ)3月吉日(1857)と読まれ、左端の講中の人名は部落の方々で15、6人程見られます。
 昔、「サダ」という地名で呼ばれた八播「中」部落の氏神として厚い信仰を受けながら、時代の移り変わりの中でひたすら人々の平安と幸福を見守り続けるオシドウ山のお伊勢様は「サダ」のシンボルともいえるでしょう。(西村 忍)
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● 中林山六地蔵(なかばしやま ろくじぞう) 

 六道に現れて衆生を救うという六地蔵尊は、柏倉宿八月田の菅沢山寄りの農道沿いに並んでいたものでしたが、昭和52年施工の県営捕縄整備事業のため移されたものです。
その中の一つが自然石ですが、本体の地蔵尊が南に見える大森山頂に背負われて立っているということです。誰が何のために移したのかわかっていません。(現場の案内板より)

 六地蔵像は、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。(Wikipediaより)
 中林山六地蔵の他に、荻の窪・礫石、新田の六地蔵がある。
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● 主 水 塚 (もんどづか) 

 上泉主水泰綱−新陰流の達人、ここに眠る
 日向山の東のふもと、水方不動尊の近くに主水塚と呼ばれる盛り土の場所があります。ここに富神山合戦のとき最上軍と刃を交し、はからずも破れた天下の剣豪、神陰流の使い手・上泉主水泰綱(かみいずみもんどやすつな)が奉られています。
 平成12年秋、剣豪泰綱の17代目のご子孫・上泉一治氏が米沢から西山形を訪れ、ご先祖に献花をされました。そして上泉家に伝わる『泰綱伝』の写しを散歩道事務局に手渡されました。上泉家に伝わる『泰綱伝』は慶長出羽合戦における長谷堂城の戦いをこう語っています。
「…畑谷城を攻めて後、泰綱は直江兼続に最上義光との戦いをあきらめさせようとしました。天下を渡り歩いていた泰綱は義光の軍が強いことを知っていたからです。しかし、進言は兼続に入れられず、兼続は長谷堂城を攻めました。そして、関ケ原で石田三成や小西行長らが破れたことを知った兼続は、色を失い即刻退散するのです。しかし、それを潔しとしない泰綱は討死を覚悟で伊達の援軍を得た最上軍にただ一人切り込みました。多勢に無勢のなか、疲れ傷つき、ついに最上軍の漆山九兵衛と組み討ちした時、九兵衛を倒しながらも深い谷川に転び落ち気を失い、そこに駆け寄った里見民部の小姓・金原七蔵に討ちとられました。この話を知った義光は「不運にも討ち死にしたとは言え上泉は天下の勇士。英雄として祭り礼を尽くせ」と命じ、高名の修験・行蔵院(ぎょうぞういん)が泰綱を神と崇め六日町に社を建立しました…」
 さて、ここから先の話は『柏倉門伝村誌』などの郷土史に語り継がれておりますから皆さんもご存じでしょう。荒れていた主水塚も草が刈り払われ、案内板が立ち、花が手向けられています。
引用「上泉主水泰綱伝」から要旨を現代文に換えさせていただきました。上泉主水泰綱公のご命日は、9月29日。(散歩道事務局)
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● 日向山 病目地蔵(ひぬかいやま やめじぞう) 

 江戸時代後期嘉永年間(1850年頃)に柏倉八幡神社前にあった行善院宝釈寺から此の地に移されたと伝えられています。当時、目の病が流行り人々は神や仏にすがり快復を願った。この日向山山麓の地蔵は特別な功徳があって賓銭で目をこすり地蔵にあげると不思議な霊力で病がなおったと語り継がれています。
 この地蔵尊は日向山の北東の角で土屋利正さんの畑の登り口に鎮座している高さ90センチほどの五輪の塔を型どった石造物で、とても立派なものである。五輪の塔の名称で言えば「天」「空」に当たる球状のものが乗せられていた跡があるがもうそれはない。また、俗に笠という部分であるが六角形で、現在のは2代目の笠(コンクリートの造りもの)であり、当時の笠は石造物で惜しくも二つに割れて、傍に苔むしたまま安置されている。笠を支えている六角のその面々にはそれぞれの地蔵尊が刻み込まれ、いわゆる六地蔵が一体をなした石造物と言えよう。その下の円形をなした壇には四方に向けて四つの梵字が刻まれており、又、その下、台座とでも云うのでしょうか、丸い台座の巡りにもかすかながら人為をほどこしたと思われる刻跡(卵の大きさ程)が十一面施されておるのがわかります。
 嘉永年間と言えば柏倉陣屋を治めていた堀田正睦公の時代でオランダ医学の種痘法を奨励して天然痘で亡くなる子供たちを救おうとした頃で、ようやく日本の医界に西洋医学が急速に進展し始めた頃と言えよう。
 明治元年になって神仏混淆(こんこう)の禁止令が出て明治5年当時柏倉八幡宮の別当としておられた玉照山行善院宝釈寺は廃寺となったと言われております。
 尚、玉照山行善院跡(現吉田利男氏敷地や隣接した処)には観音堂跡、子守地蔵や子安地蔵などが存在しております。(吉田家、土屋家等の談による)
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● 上丁の観音堂(かみちょうのかんのんどう) 

 昔、ある朝早く、お堂の中でコトコトと音がするので「中に何かいるぞと近所の人々が警戒しながら見守っておりましたら、ギーッとお堂の扉が開いて中から見たこともない旅人が出て来ました。近所の人々がお堂の前で驚いていましたが、旅人は、「これはどうも失礼しました。昨夜は遅くなって体も疲れて、この観音様に手を合わせてお詣りしておりました処、『旅人よ、泊まる家もないだろうから此処に泊まって朝早く出立するがよい』と観音様が言ってくれたので、おぼしめしに甘えて、ついゆっくりさせて貰いました。お陰様ですっかり疲れが取れました。本当にお慈悲の深い観音様に頭が下がります。皆様ありがとうごぎいました」とお礼を言って、また旅に立ちました。
 江戸時代後期の嘉永年間(1850年頃)柏倉八幡神社前にあった行善院から上丁の安達林栄さんの処の三叉路付近の一角に遷座されたと聞きますが、その後、現在地の木川氏宅近くに再び遷座し住民の信仰を集めております。御本尊は木像、約6センチ程、のぼり旗には十一面観音大菩薩と書かれております。終戦後間もなくのこと、以前ののぼり旗が盗難に会い、昭和26年、安達佐逸先生の執筆で復元しております。
 観音様の御詠歌「ありがたや 大師のちからで身を救う みちびき給う弥陀の浄土へ」
 また、椹沢にお住まいの小林松茂さんは、夫婦延命観音菩薩33番霊場と銘して巡礼しておられ、この上丁の観音様はその中の14番目で、
「さやさやと やま辺によりぬ古み堂 からすのこえや やさしかんのん」
と詠まれております。(木川 五男、高橋 侃)
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● ごろびつ岩 

 ごろびつまんげん、あしぇまんげん
 富神山のふもとを南に回って柏倉と七つ松を結ぶ道があります。山形と白鷹を結ぶ狐越街道は富神山北側の山上を通るのですが、この南回りの山道はもう一つの狐越街道でした。
 ここにごろぴつ岩があります。富神川(とかざ)の中にでんと陣取った大きな岩です。いつの頃からそう呼ばれたのかわかりません。今の子供たちは「ごろぴつ」の意味もわからないでしょう。
「ごろびつ」は弁当箱のこと。それも秋田の「曲げわっば」の形をした昔の弁当箱を言います。富神川の中の大岩はずんぐりとしていて弁当箱の「ごろぴつ」にそっくりなのです。
「ごろぴつ」は「まんげん」とも「あしぇ」とも言います。ここからごろびつまんげん、あしぇまんげん、という呪文のような言葉が生まれました。
 山仕事や畑仕事に行く時「まんげん」に御飯をぎっしりと詰めて蓋を合わせる。それを「あしぇまんげん」、合わせ弁当箱と言って、蓋は山のように盛り上がっている。その姿と富神川の大岩は瓜二つだったのです。
 まだ軽トラックが普及していなかった頃、山仕事へは歩いて出かけました。朝にごろびつまんげんを抱えて山に出かける。帰ってくるのは夕暮れ時。父親の帰りを見計らって子供たちはごろびつ岩の辺りまで出かけた。山道の先を見つめていると空になった「まんげん」をぶら下げて父親の姿が現れる。貧しかったかもしれないが、長閑な風景がありました。
 ごろぴつ岩の上には湯殿山の碑があります。東北の山々には神々が住み、多くが信仰の対象として祀られています。この辺りでも山への信仰は厚く、山の神、古峯神社、馬頭観音の碑が建てられています。
 ごろびつ岩を登ると壁粕というやや開けた場所があります。ここからは縄文土器が発見されてもいます。西山形は東西に長く広がる地域ですが、東の田圃から西の山々にいたるまで長い歴史と豊かな人々の文化が記憶されています。壊さずに守りたいのですが、山は荒れています。何年か前、小さな山の神の碑が富神川脇に転がっているのを見ました。その山の神はいつの間にか残土に埋まり、今は見ることができません。(散歩道事務局)
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● 慶長出羽合戦 

 東北の関ケ原合戦
 東北の関ケ原と呼ばれる慶長出羽合戦(慶長5年・1600)では富神山の麓で特に激しい攻防が繰広げられました。兼続と義光の戦いは畑谷城や長谷堂城の戦いがよく知られていますが、富神山での戦いも壮絶なものでした。
 豊臣秀吉が亡くなって後、天下を取ろうとする二つの勢力が日本に現れました。石田三成と徳川家康です。この二人を頂点とする勢力が9月15日、関が原で15万の兵を戦わせました。
 米沢城主の直江兼続は西軍の三成側につき、一方の最上義光は東軍の家康側につきました。両者はいくつかの戦闘を繰り広げましたが、富神山の麓で両軍は最も激しく戦ったのです。
 2万の兵を引き連れて兼続の軍は米沢方面からやって来ました。
 まず、畑谷城が落とされ、上山城も兼続に攻撃されました。しかし決着がつかないまま、兼続は次に長谷堂城を包囲しました。少数の兵で長谷堂を攻める一方、銃を持った大軍を富神山の東の麓に待機させました。「長谷堂城を攻めれば義光が霞城から助けにやって来る」と兼続は踏んだのです。義光が援軍を率いて富神山に来たら2万の軍勢で一気に攻め落とそうと画策したのです。
 ところが、義光の軍勢は霞城から少しも動く気配がありません。義光の軍が城から出てこなかったのは兼続の大軍にたじろいだからとも、いや、じっくりと作戦を練っていたからだとも言われています。
 志村光安の守る長谷堂城は難攻不落で膠着状態が続いていました。そこへ関ケ原で三成が破れたという知らせが9月29日、両陣営に届きます。これで家康についた義光に分がよくなりました。兼続にすればもはや霞城を攻める事態ではなくなり、すぐに撤退を始めました。その引き上げる敵を追って義光がすばやく動きました。時は1600年10月1日。富神山での激しい戦いはこの時に起こりました。自ら軍を率いて富神山にやって来て激しく戦った義光の兜にはこの戦で受けた銃弾の跡が残されています。
 富神山の麓には止めどない銃声が山間にひびき、鎧兜に身を包んだ両軍の多くの若武者が秋の青い空を仰いでこの大地に崩れ落ちました。

 この日本中を巻き込んだ天下分け目の戦いの後、日本は徳川の時代を迎えます。最上義光は57万石の大封を得、山形藩を立藩します。
 義光が築いた山形藩には各地の大名が入れ替わり入りますが堀田家もそのひとつで3代46年間在封しました。堀田家は延享3年(1746)に下総国佐倉藩に転封しましたが、柏倉4万石は佐倉藩飛び地として柏倉陣屋が明治の廃藩置県まで125年間、平穏に支配しました。出羽合戦の戦乱に揺れた山里が教育と文化に栄える里となったのはこの堀田時代に礎を置くと言われています。(散歩道事務局)
参考 『慶長5年 長谷堂付近戦史』高橋涙聲/大正14年、「最上義光と出羽合戦」早坂 忠雄/昭和17年
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● 狐 越 街 道 

 狐越新道開通まで
 今から120余年前の明治20年10月30日、門伝で「狐越新道落成式」が盛大に行われた。
 この事業は、県都山形一円と置賜地域とを結ぶ大動脈が必要と、南村山、西村山、西置賜3郡268町村連合会で狐越新道が最適と決定、明治19年10月着工。新道といっても旧道の改修部分もあるが、山形上町から沼木・門伝・山王・荻ノ窪・礫石・大平・嶽原から狐越峠(標高705メートル)を越えて荒砥まで約8里、その内約5里は山道、それをすべて荷車が通れる道に、わずか1年間で完成したのだから驚嘆に値する。それ以前の山道は荷物を背にした牛馬が通れる程度だった。
 この大事業をまとめたのは、当地区の県会議員斎藤理右衛門(今の斎藤医院)で、この3郡連合会議員総代として落成式に述べた祝辞全文が、当時の新聞に出ており、その偉業の一端をうかがうことができる。
 狐越街道で歴史に有名なのは、慶長5(1600)年、上杉軍と最上軍との攻防戦であろう。
 江戸中期以降、白鷹山嶺を越える道筋に、この狐越峠を越す「狐越道」とは別に、七ッ松から上平を経て大沼・畑谷・荒砥へ通ずる道筋があり、これを「中越道」といって幕末の公道であった。
「公道」とは、口留番所(荷改め、荷口銭が徴集される)がある道で、畑谷にこの番所があったから、中越通が公道で他の狐越は「藪道(やぶみち)」とされ通行を禁じられた。だが、狐越道が利便良かったのでひそかに通行され、時に抜荷問題を起こすこともあったことが古記録にある。
 それが、明治20年の新道開通(翌21年県道となる)で「狐越街道」の名は白鷹越えを総称する街道名となって今日に至っている。

 街道のにぎわい
 狐越新道という近代的大街道の開通は、昔からの上山から山辺への南北道と十字に交叉することになった「門伝四辻周辺」は飛躍的に発展した。旅館3軒、料亭4軒、魚屋・菓子屋・呉服・荒物・鍛治屋などそれぞれ2軒以上、医院、薬屋に種々の職人も集い、銭湯や芝居小屋の「富神座」まであって西部一の商業地域として今日に至っている。今で言えば、高速道路のインターチェンジができたようなものだろうか。
 この街道で特筆すべきは、大量の「桑」が置賜地域に運ばれたことである。
 特に明治初年、下柏倉名主であった「伊藤五郎治」が選種した「五郎治早生」は抜群に速い開葉で、春蚕初齢から三眠まで絶対の優位を示したから、この新道開通で一段と盛んになり、荒砥桑問屋から荷車を引いて嶽原で待っている「三平」(桑問屋の手先で仲買人)に日に何度も往復したり、三平になっていい思いをしたと語る方が当地区にも何人かおられた。
 だが、大正12年、荒砥まで鉄道が来ると次第に通行が減少し、昭和9、10年に山王・荻の窪間が改修(富神山迂回路)されるが、昭和25年、畑谷廻りの荒砥行きのバス道路が開通するに及び、嶽原までは修理されたがその先の狐越峠は道形はあるものの通る人ははとんど無くなったようである。
 なお、司馬遼太郎は街道シリーズで狐越街道をこのように書いている。
「狐越の山河は、予想したとおり、東北の自然がもつ独特のしじまをいまなお秘(ひそ)かに保(も)ち残しているようで、途中飽くことがなかった。
 山が果てるころ、急に眼下に山形盆地を見下ろすことになる。野広く、その野の涯(はて)には蔵王の連山がそびえている。野の一部に白い建物が密集して山形市の市街地がひろがっており、自然と都市との調和が、日本でもめずらしいほどの美しさで展開されている。」(『街道を行く』十羽州街道・佐渡のみち 朝日文庫1983年)(結城 敏雄)
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● 坊屋敷縄文遺跡 

 この遺跡からは土壙(どこう)と呼ばれる古代の墓が多く発掘されました。
 土壙からは土偶(どぐう)と呼ばれる人形が出土しました。これは死者を埋葬した墓に一緒に埋められた土の人形で、その表情の柔らかさから、恐らくは私たちの直系の祖先である縄文の人々の、その精神生活の豊かさが偲ばれます。(現地の案内板より)
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● 金 池 遺 跡 

 縄文時代晩期の遺物、土壙(どこう)が発見されています。土壙は墓所と考えられ、近くの大清水遺跡、坊屋敷遺跡との関連が考えられています。この遺跡からは、平安時代の土師(はじ)器、須恵(すえ)器なども出土しており、溝跡も発見されました。
 柏倉の縄文遺跡は大部分がこうした複合遺跡であり、この地が住みよい土地で、しかも平和であったことを物語っております。(現地の案内板より)
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